アフガニスタンが日本で話題に上ることは多くありませんが、2019年12月4日、現地で多大な功績を残した中村哲医師が殺害されたときには、日本でも事件とともに現地の様子が報道されました。
複数の武装勢力の存在もあり現在も治安が不安定なアフガニスタンは、ソ連侵攻やタリバーンの絡む内戦、そしてアメリカを中心とする西洋諸国の介入など、しばしば大規模な紛争の舞台となり、多くの難民を生み出してきました。
現在のアフガニスタンはどのような状況にあり、国際社会には何が求められているのでしょうか。この記事では、はじめにアフガニスタン難民の数や受け入れ国を概観し、難民流出とアフガニスタンの歴史的経緯との関連を解説します。歴史を理解したうえでアフガニスタンの現状を知り、今私たちにどんな支援ができるのか考えてみましょう。
はじめに、最新のデータを使ってアフガニスタン難民の数とその受け入れ国を紹介します。難民について考えるときに忘れてはいけない「国内避難民」の数もあわせて確認し、それぞれの数の変化の背景にどのような経緯があるのか考えてみましょう。
国連難民高等弁務官事務所(UNHCR)によると、2020年半ば時点でのアフガニスタン難民の数は合計約273万人です(注1)。同じ時点での世界全体の難民数は2,630万人とされていますので、アフガニスタン難民は難民全体の10%以上を占めている計算になります(注2)。
難民の数を出身国別に比較すると、シリア(約660万人)が最多で、ベネズエラ(約370万人)が続きますが、アフガニスタンはこの2カ国に次いで3番目に多くの難民を生み出しています(注2)。
UNHCRのデータを使ってアフガニスタン難民の数の年次推移をグラフにすると、次のようになります(注1)。
1980年前後に急増したのち、10年ほど徐々に増加を続け、1990年に記録上最大の633万9,095人に達しています。1992年から劇的に減少しましたが、1994年以降は260~270万人程度で横ばいの状態が続きました。その後、2000年から2001年に目立った増加があった後、ほどなくして210万人程度まで減少しましたが、2007年に再び増加して以降は、250万人から300万人程度の規模で現在まで推移しています。
アフガニスタンを逃れた人々はどこで暮らしているのでしょうか。1万人以上のアフガニスタン難民を受け入れている国を、受け入れ数の多い順にまとめると、次のようになります(注1、2020年半ば時点)。
受け入れ国 | アフガニスタン難民受け入れ数 | 総数に占める割合 |
---|---|---|
パキスタン | 142万4,961人 | 52.21% |
イラン | 95万1,142人 | 34.85% |
ドイツ | 13万3,370人 | 4.89% |
オーストリア | 3万8,371人 | 1.41% |
スウェーデン | 3万272人 | 1.11% |
フランス | 2万7,199人 | 1.00% |
ギリシャ | 1万5,581人 | 0.57% |
スイス | 1万4,467人 | 0.53% |
オーストラリア | 1万1,157人 | 0.41% |
南東で国境を接するパキスタンが全体の52%以上、その西隣のイランが35%弱を受け入れており、この2カ国だけでアフガニスタン難民全体の9割弱を受け入れていることがわかります。全体の5%弱にあたる13万人以上を受け入れているドイツ、そして数万人規模のオーストリア、スウェーデン、フランスがこれに続き、6位以降は受け入れ人数が2万人未満のヨーロッパ諸国とオーストラリアが並びます。
なお、パキスタン、ドイツ、イランは、世界中から多くの難民を受け入れている難民受け入れ大国です。パキスタンは4番目、ドイツは3番目、イランは8番目に多くの難民を受け入れています。(注3)。
避難生活を余儀なくされているのは、上述のような国々に逃れたアフガニスタン難民だけではありません。国境を越えずに国内にとどまって避難生活を送っている人々を「国内避難民」と呼びますが、危険から逃れて家を離れ、支援を必要としているという点では難民と同じ状況です。
2020年半ば時点でのアフガニスタン国内避難民の数は264万7,358人であり、この数は難民とほぼ同等です。先ほどの難民数のグラフに国内避難民の数を併記すると、次のようになります(注1)。
1992年までは、多数の難民が流出していた反面、国内避難民の数は記録されていません。記録がはじまってから難民数と比例して増減していますが、難民数が横ばいに転じた2007年以降、国内避難民の数は右肩上がりで増加を続け、2019年には難民とほぼ変わらない規模に達しています。
つまり、アフガニスタンではもともと国内ではなく国外に生きるために逃れる人がほとんどでしたが、近年避難した人はほとんどがもともとの居住地ではない国内の別の場所に逃れています。
ここまでで見てきたような難民や国内避難民の数の変化は、アフガニスタンの政情と深く関連しています。続いてはアフガニスタンの歴史を簡単に振り返り、難民の流出や国内避難民の発生の原因を探ってみましょう。
18世紀、現在のアフガニスタン南部に位置するカンダハールを中心としてパシュトゥーン人の王国が形成されたのが、アフガニスタン地域における国家の始まりです。これはあくまでパシュトゥーン人国家であり、現在のパキスタン領内に住むパシュトゥーン人たちを含む一方、現在のアフガニスタンを構成する他の民族は含んでいませんでした。パシュトゥーン人以外の民族を含む「アフガン人」の概念が確立したのは、20世紀に入ってからだと言われています(注4 P14)。
19世紀後半に入ると、アフガニスタンは、植民地であるインドから影響力強化を狙うイギリス、そして南下政策を進めるロシアという2大国の勢力争いのただ中に置かれました。険しい地形のおかげでイギリスによる二度の侵攻は失敗に終わりますが、イギリスの圧力を受けてパシュトゥーン人の分断を固定化するパキスタン国境線「デュランド・ライン」に合意したのち、最終的にイギリスの保護国として支配下に置かれるようになりました(注5)。
その後、ロシア帝国崩壊やインドでの独立運動への対応などを背景にイギリスがアフガニスタンの支配に消極的になったこともあり、アフガニスタンは1919年にイギリスからの独立を果たしました(注6 P57)。
第二次世界大戦中は中立政策を貫いたアフガニスタンでしたが、1947年のパキスタン独立に伴って国境線をめぐる紛争が起きたことで国境封鎖や国交断絶に至り、冷戦構造化で新たな経済ルートを模索する中、次第に親ソ連の姿勢に傾いていきます(注6 P57)。
1973年、国内で台頭していた社会主義勢力「アフガン人民民主党(PDPA)」の支持を受けた軍事クーデターにより王制が廃止されましたが、政権がPDPAを排除する政策を取ったために、1978年の社会主義革命を招きました(注5)。
革命で権力を掌握したPDPAは、急進的な共産主義政策と反政府勢力の弾圧を進めたため、党の分裂と国内情勢の不安定化を招く結果となりました。こうした中で政権がアメリカに接近する動きを見せたこともあり、危機感を抱いたソ連が1979年にアフガニスタンへ侵攻しました(注6 P57-59)。
こうした混乱を受けて、ソ連侵攻の時点ですでに40万人以上のアフガニスタン難民がパキスタンに避難していたとされますが、ソ連侵攻後は、2年間で実に400万人を超える難民がパキスタンに逃れ、さらに数十万人が国内避難民となったと言われています(注6 P59-61)。
アフガニスタンの反政府勢力は、対ソ連の闘争をジハード(イスラームの聖戦)と位置づけ、自らを「ムジャヒディン」(イスラームの戦士)と称してゲリラ戦を展開しました。ソ連に対抗する目的でアメリカがムジャヒディンを支援したことで紛争は長期化しましたが、ソ連軍が1988年に和平協定に調印して撤退すると、アメリカの関心も薄れ、近隣国の支援を受けた国内勢力諸派が対立する内戦状態に陥りました(注6 P60)。
先ほどのグラフで難民と国内避難民の数が1992年から激減していますが、これはアフガニスタンの親ソ連政権が崩壊した年です。これを機に相当数の難民がアフガニスタンに帰還したのは事実ですが、同年にパキスタンが入国時のビザ取得を義務付けたことから、パキスタンに避難できず国内避難民化した人が大勢いたことにも留意が必要です(注7 P62)。
内戦で国内が疲弊する中、1994年頃から台頭したタリバーンが96年には首都カブールを制圧し、翌97年には国土の9割を支配下に置きました。治安の改善に貢献した面もあるタリバーンは、当初国内で幅広い支持を得て、アフガニスタンの安定化を望むパキスタンやアメリカからも支援を受けました(注6 P62-63)。
しかし、独自のイスラーム法解釈に基づく支配で国内外からの支持は薄れ、1998年にケニアとタンザニアで起きた米国大使館爆破事件の首謀者であるオサマ・ビン・ラディンの引き渡しを拒否したことで、タリバーンの国際社会での孤立は決定的となりました。ビン・ラディン率いるアルカイダが2001年にニューヨーク同時多発テロを起こすと、彼らを庇護するタリバーンに対してアメリカが空爆を開始。北部同盟として結束していたムジャヒディン諸派も攻勢を強め、タリバーン政権は2001年12月に崩壊に至りました(注6 P62-63)。
難民と国内避難民の数のグラフで2001年に顕著な増加が見られるのは、アメリカによる空爆を避けて多数のアフガニスタン人が国外に脱出したためです(注6 P64)。
タリバーン政権の崩壊後、アフガニスタンの各派代表による「ボン合意」のもとで、国連アフガニスタン支援ミッション(UNAMA)が主導する復興プロセスが始まりました。プロセス開始から現在までのアフガニスタンの状況を振り返り、今アフガニスタンに求められる支援について考えてみましょう。
2001年12月のボン合意成立後、同年中に暫定政権発足。2003年の新憲法採択を経て、2004年に大統領選挙でカルザイ大統領が当選しました。2014年には、2期を務めたカルザイ大統領に代わってガーニ大統領が選出され、現在はガーニ政権が2期目に入っています(注7)。この間、アメリカや北大西洋条約機構(NATO)加盟国がアフガニスタン駐留兵士の増員を数回行った一方、2014年に戦闘作戦が終了した後も、撤退時期を繰り返し延期してきました(注8)。
2020年2月、アメリカとタリバーンとの合意が成立し、2021年5月1日を期限とする駐留米軍の条件付き撤退が決まりましたが、2021年4月、アメリカはこれを延期する形で同年9月11日までにアフガニスタンの駐留米軍を完全撤退させると発表。これにより、ニューヨーク同時多発テロから20年の節目に、アメリカがアフガニスタンへの軍事的な関与を終了させることが決定しました(注8)。
アフガニスタン政府とタリバーンとの間の和平交渉は2020年9月に開始しましたが、両者の間での戦闘は続いています。アフガニスタン政府はタリバーンの抑え込みをアメリカの空爆に頼っており、和平合意の実現前に外国軍が撤退した場合には、タリバーンが政権を掌握する可能性も懸念されています(注9)。
アフガニスタンでは支援関係者を狙った攻撃が相次いでおり、2019年12月には日本人の中村哲医師が殺害される事件が起きました。中村医師は1980年代からパキスタンとアフガニスタンで医療活動を始め、2000年からは干ばつ被害の拡大を受けて水資源分野での活動を開始。2003年からは農村復興のための用水路建設を続けていました(注10)。
こうした多大なる功績により、中村医師はアフガニスタン政府から名誉市民権を授与されていました。事件後、日本政府からも中村医師に旭日小綬章と首相の感謝状が授与されました。
中村医師は、2010年に雑誌に掲載されたインタビューの中で、「自給自足の生活を復活させなければ、アフガニスタンの農村では生きていけない」として、農業用水を確保する必要性を語り、用水路建設による飢餓対策効果や治安改善効果を説明していました(注11)。
難民や国内避難民が故郷へ帰って生活を立て直すためには、生計を立てるための基盤が欠かせません。中村医師が行った用水路建設のように、アフガニスタンには、人々が安定した暮しを営める国づくりに向けた復興支援や開発支援が求められます。
アフガニスタンの復興支援と並行して、現在避難生活を送っている難民や国内避難民への支援も不可欠です。
2012年、アフガニスタン、イラン、パキスタン3カ国の政府が「アフガン難民のための解決戦略」を策定し、後にその支援プラットフォームが設立されました。避難生活中の難民やアフガニスタンに帰還した難民への支援は、UNHCRをはじめとする国連機関やNGOが参加するこの戦略に沿って行われています(注12)。
この戦略はアフガニスタン難民の自発的帰還と母国への再統合、そして難民受け入れ国への支援を柱とするもので、帰還が叶うまでの間の受け入れ国への負担を軽減するため、教育や保健、職業訓練などイランとパキスタンの公共サービスに追加資金をもたらすことを目標の1つに掲げています(注13)。
注1 UNHCR:Refugee Data Finder 1979年~2020年のアフガニスタン難民・国内避難民数
注2 UNHCR:Refugee Data Finder - Key Indicators
注3 UNHCR:Global Trends - Forced Displacement in 2019 9ページ
注4 日本国際問題研究所:篠田英明 アフガニスタンにおける平和構築とその限界 国際問題 No.564 pp.13-22
注5 JICA:歴史 グレートゲームからカルザイ政権まで
注6 JICA緒方研究所:新垣 修 カンボジアとアフガニスタンにおける法の支配・難民関連事業 -平和構築支援に係る事例研究- 第3部 アフガニスタン
注7 外務省:アフガニスタン・イスラム共和国 基礎データ
注8 BBC:バイデン氏「米最長の戦争終結」宣言 同時多発テロ20年の節目までにアフガン撤退へ
注9 BBC:アフガン駐留米軍、9月11日までに完全撤退へ
注10 ペシャワール会:現地代表 中村哲
注11 中村哲特設サイト(株式会社ロッキング・オン・ホールディングス):ついに、農業用水路が開通!なぜ医師はアフガニスタンに用水路をつくったのか。
注12 SSAR Support Platform:Support Platform for the Solutions Strategy for Afghan Refugees (SSAR)
注13 SSAR Support Platform:SSAR Support Platform document - A Partnership for Solidarity and Resilience