イラクという国名を聞いたとき、戦争をイメージする人もいるかもしれません。実際に、湾岸戦争やイラク戦争、そして武装勢力と国軍との紛争などで、イラクは長年、武装闘争の舞台となってきました。こうした国内情勢を反映して、多くのイラク難民が近隣国や欧州などへ逃れた一方、現在のイラクは、シリア難民の主要受け入れ国の1つでもあります。
この記事では、まずイラクから国外へ避難した人、そしてイラク国内で避難生活を送っている人の数の推移や分布を、歴史的な出来事と関連付けて解説します。その上で、避難中の子どもたちの声やワールド・ビジョン・ジャパンのイラクでの支援活動についてお伝えします。
はじめに、イラク難民の現在の数を主要受け入れ国別に概観し、これまでの数の推移を見てみましょう。現在までのイラク難民の数の変化からは、イラク戦争など歴史上の主要な出来事との関連が見えてきます。
国連難民高等弁務官事務所(UNHCR)のデータによると、2020年時点でのイラク難民の数は合計32万5,485人です(注1)。同じ時点での世界全体の難民数は2,630万人とされていますので、イラク難民は難民全体の1.2%ほどを占めている計算になります(注2)。
1万人以上のイラク難民を受け入れている国を、受け入れ数の多い順にまとめると、次のようになります。
受け入れ国 | イラク難民受け入れ数 |
---|---|
ドイツ | 13万1,935人 |
ヨルダン | 3万4,225人 |
イラン | 2万8,268人 |
シリア | 1万2,419人 |
スウェーデン | 1万2,058人 |
ギリシャ | 1万455人 |
ドイツが突出して多くのイラク難民を受け入れていることがわかります。計算してみると、イラク難民全体の実に40%以上がドイツで暮らしていることになります。なお、ドイツは世界で5番目に多くの難民を受け入れている難民受け入れ大国でもあります(注2)。
イラク難民の数は現在では32.5万人程度ですが、過去から現在までどのように推移してきたのでしょうか。UNHCRが公表している1968年から2020年までのイラク難民数をグラフにすると、次のようになります(注3)。
1985年に30万人ほど増加した後、1990年からさらに大幅に増加し、1991年には130万人を突破しています。その後は1993年から2005年まで減少を続けていましたが、2006年から2007年にかけて230万人超へと急増していることがわかります。その後、5年ほどかけて元の水準に戻り、2013年から現在までは、ほぼ横ばいで推移しています。
グラフに表れている急激な難民数の変化の背景には、戦争とそれに伴う国内情勢の変化が大きく関係しています。
イラク難民の数が初めて100万人を突破した1990年は、湾岸戦争が起こった年です。その後、2003年のイラク戦争を経て、2005年には国連の支援の下で憲法草案の採択や議会選挙が実施され、2006年に新政府が樹立されました。
しかし、その裏で宗派間の対立が悪化し、多くのイラク国民が難民となって国外へ脱出しました。これが、先ほどのグラフにあった2006年からの急激な難民数の増加の背景です。特に、2006年2月に起きたモスクの爆破事件は、スンナ派とシーア派の間の武力衝突を激化させ、イラクが内戦状態に陥るきっかけになったと言われており、難民の流出に拍車をかけました(注4)。
ここまでで見てきたのは、イラクから他国に避難したイラク難民ですが、この他に、イラク国内で避難生活を送っている人々も多数存在します。国境を超えず国内で避難を続けているイラク国内避難民、そして、隣国シリアから逃れてきたシリア難民です。イラクで避難生活を送っている子どもたちの声を交えて、彼らがどのような状況にあるのか詳しく見ていきましょう。
次のグラフは、先ほどのイラク難民数の推移のグラフに、イラク国内避難民の数の推移を表すグラフを重ねたものです(注3)。
イラク戦争後の2005年、難民より一足早く、国内避難民が急増し始めているのがわかります。その後2013年までは、難民と国内避難民の数の変化はおおよそ似た形になっていますが、2014年から翌年にかけて、国内避難民だけが激増しています。これには、イラク北部の大都市モスルでの紛争が関係しています。
2014年、シリアとイラクにまたがる地域で支配地域を拡大していた武装勢力により、イラク第2の都市モスルが占拠されました。モスル陥落とも呼ばれるこの事件以降、モスルは3年間にわたって武装勢力の拠点となり、2016年からイラク軍が展開した奪還作戦では、激しい戦闘の舞台となりました。家屋や公共施設などあらゆるインフラが破壊され、住民の約半数が家を追われたと言われています。
2017年末に武装勢力の掃討作戦が完了して勝利宣言がなされて以降、住民が続々とモスルへ帰還しているため、国内避難民の数は紛争前の水準近くまで戻っています。しかし、戦闘で破壊された地域での生活の立て直しは容易ではありません。
武装勢力の支配下では、多くの子どもたちが爆撃や狙撃に怯えながら家に閉じこもっていました。家族が誘拐されたり殺されたりするのを目撃した子どもも少なくありません。
ワールド・ビジョンは、2014年8月に、モスルからの国内避難民に対する支援を開始しました。モスルを逃れてワールド・ビジョンの支援を受けた子どもたちは、武装勢力支配下での生活について次のように語っています。
ハマードくん(14歳):
「無人機が、ぼくのとなりの家を直撃して、その衝撃はすごく大きかった。5人も亡くなって、他の人は傷を負った。『次はうちだ!』と思ったよ。あの悪の無人機が怖かった。ぼくたちは、みんな、怯えていた」
ラクワちゃん(12歳):
「私は頭を覆っていなかったから、怖かった。武装勢力は、女の子が頭を出していることを嫌っていたの。彼らは、人前で逮捕したり、侮辱したりしたわ」
メドくん(8歳):
「ぼくたちは、遊ぶことを禁じられていた。彼ら(武装勢力)が許可しなかった。彼らは銃を撃っていて、ぼくはその音が怖かった」
モスルで恐ろしい経験をしたばかりか、子どもらしい生活さえも奪われていたということが、子どもたちの言葉に滲んでいます。
イラクで避難生活を送っているのは、国内避難民だけではありません。
イラクには現在、隣国シリアから逃れてきた難民が24万人以上も暮らしています。イラクに多数のシリア難民が流入し始めたのは2012年で、2013年に20万人を突破しました。2019年10月、トルコのシリア侵攻時にも難民流入があり、現在まで一貫して23万人から25万人程度の難民がいるという状況です(注5)。
このうちのほとんどが、イラク北部のクルド人自治区で生活していますが、クルド人自治区はモスルからも近く、多くのイラク国内避難民を受け入れている地域でもあります。UNHCRによると、2019年時点でイラク国内避難民の71%がクルド人自治区で生活していました(注6)。
一部の地域が自国の避難民だけでなくシリア難民も集中的に受け入れている状況のなか、国際社会の一員として、ワールド・ビジョンもイラクでの支援活動を継続しています。
イラクの現在の状況をより詳しく知っていただけるよう、ワールド・ビジョンがイラク国内避難民のために実施している支援活動をご紹介します。イラクの現在の状況や支援を受けた子どもたちの変化を念頭に、今後求められる支援のあり方についても考えてみましょう。
モスルが武装勢力の支配下に置かれていた約3年の間、多くの子どもたちが教育を受ける機会を奪われました。それだけではなく、流血した負傷者や遺体を目にしたり、爆破によって家を失ったりと、多くの子どもたちが過酷な経験を強いられました。
ワールド・ビジョンは、子どもたちが安全な環境で質の高い教育を受けられるよう、コミュニティの中で子どもたちが心身ともに保護される環境を整える活動を行ってきました。
現在は新型コロナウイルス感染症の影響で学校が閉鎖されていることもあり、子どもたちが家庭で楽しく学べる教材の配布、子どもの保護委員会の組織化と運営支援、保護者への子育てに関する研修(体罰に頼らないしつけの仕方を学ぶ)、そして個別支援が必要な子どもへの支援を実施しています。
ワールド・ビジョンの支援を受けたモスルの子どもたちの中に、11歳のアリ君という少年がいます。
アリ君は学校でたくさん勉強して友だちをたくさんつくろうと思っていましたが、紛争で生活が厳しくなり、学校をやめて家族のために働かなくてはならなくなりました。1日中、モスルの市街地で不発弾や武器などの鉄くずを集める危険な仕事で、ある日、アリ君は地雷によって指を切断する大けがを負ってしまいました。
「他の子たちが学校に行くのを見て、以前はいつか自分も学校に戻りたいと希望を持っていたけれど、けがをしてしまって、それも難しくなりました。学校に行くときに着る服や必要な教科書を買うこともできません」と話していたアリ君ですが、ワールド・ビジョンの事業を通じて新しい学用品や服などの支援を受け、学校に戻ることができました。
ワールド・ビジョンが運営するレクリエーション活動にも参加し、たくさんの友達と日々を過ごしています。アリ君に笑顔が戻り、ワールド・ビジョンの事業チームも励まされています。
モスルの奪還作戦が完了し、武装勢力による支配や武力紛争は終わりましたが、紛争終結から3年以上が経つ今も、モスルを含む「深刻な状況」にあるとされる地域の帰還民のうち、58%が基本的な生活ニーズを満たせていないと言われています(注7)。さらに、現在も壁や屋根に損傷が残る住居で生活している家庭も多く、モスルの子どもたちは軽度から重度まで様々な不安や恐怖、ストレスを抱えています。
特に、2020年2月以降は、新型コロナウイルス感染症の影響で、モスルのおよそ60%以上の世帯が収入源を失ったか一時的に絶たれたと言われています(注8)。これに起因する経済的困窮によって、子どもたちは栄養不良や児童労働、早婚、家庭内暴力などのリスクに晒されています。
ワールド・ビジョンは、子どもたちが安全な環境で質の高い教育を受けられるよう、ジャパン・プラットフォーム(JPF)の助成を受けて、コミュニティの中で子どもたちが心身ともに保護される環境を整える活動を行ってきました。
モスルの子どもたちとその家族が紛争の影響や恐怖を乗り越え、平和な未来に向けて回復していくことができるよう、支援を必要とする子どもたちに寄り添った、きめ細かな支援が求められています。
新型コロナウイルス感染症の流行も手伝って、難民や国内避難民への支援ニーズは増加しています。ワールド・ビジョンは、イラク国内避難民の他にも、シリア難民やロヒンギャ難民など、世界中の難民や国内避難民の子どもたちに対して支援を行っています。
イラクでのワールド・ビジョンの現在の支援活動は、紛争で傷ついた子どもたちの心のケアや個別に必要な支援の提供など、避難生活から元の生活に戻るためのものですが、他の国では、新型コロナウイルス感染症等を予防するための石けん配布や手洗い指導など「命を守る」活動や、補習授業により学習の遅れを取り戻し、学び続けられる環境作りを行うなど、「未来を築く」ための支援にも力を入れています。
故郷を離れて先の見えない生活を強いられている子どもたちの命と未来を守るため、ぜひワールド・ビジョンの難民支援募金へのご協力をお願いします。
※このコンテンツは、2021年3月の情報をもとに作成しています。
注1 UNHCR:Refugee Data Finder 2020年の国別イラク難民受け入れ数
注2 UNHCR:Refugee Data Finder - Key Indicators
注3 UNHCR:Refugee Data Finder 1968年~2020年のイラク難民・国内避難民数
注4 日本貿易振興機構アジア経済研究所 酒井紫帆:イラク難民・国内避難民問題(現状分析)
注5 UNHCR:Operational Portal - Syria Regional Refugee Response, Iraq
注6 UNHCR:IRAQ REFUGEE CRISIS
注7 Humanitarian Needs Overview 2020: HNO 2020, p.14
注8 COVID-19: Rapid Needs Assessment: Ninewa and Kirkuk, Iraq, May 2020, IRC, p3