(2021.03.18)
2011年3月11日に発生した東日本大震災から10年。ワールド・ビジョンでは、震災発生直後より、世界各地の緊急人道支援の現場で培ってきた経験を最大限に活かし、行政機関、企業、団体、NGO/NPOと連携して支援を行いました。
2021年3月6日(土)に開催したオンラインイベントでは、東日本大震災緊急復興支援事業の責任者だった木内真理子(現事務局長)と事業担当スタッフが当時の活動を振り返りつつご報告しました。
イベントでは、東日本大震災後に子どもたちへの漁業体験学習実施でご協力いただいた宮城県漁協の阿部富士夫さんへのインタビュ―動画もご紹介しました。
(インタビューは2021年2月にリモートで実施)
イベントではインタビューのごく一部しかご紹介ができませんでしたが、貴重なお話をたくさん聞かせていただきました。この記事でぜひ全文をご覧ください!
宮城県魚業協同組合 志津川支所 所長
日頃から町内で南三陸町ボランティアサークルぶらんこ(MVCぶらんこ)の活動を応援。2013年10月には、東京・神奈川の中高生とMVCぶらんこメンバーに対し、漁業の体験学習を実施し、わかめの芯抜きボランティアとして受け入れた。
中高生交流イベント「南三陸を学ぶ~いま私たちにできること~」開催報告
南三陸町とワールド・ビジョン・ジャパンによる子ども参画の事例
~南三陸町まちづくりプロジェクト提案書提出後の取り組みと反響~
震災からまもなく10年になりますけども、ワールド・ビジョンの皆さんには、感謝でいっぱいです。本当にありがとうございました。いま思うと10年、本当に早かったなぁというのが第一かな。
南三陸町もですね、高台の方への住宅の建設は、ほぼすべて終わっています。漁港関係では、防潮堤などが完全には終わっていないのが今の状況です。おかげさまで、漁業の生産量については、震災前に戻っています。10年経って、震災前に戻ったのは非常に嬉しいし、ほっとしています。
震災前から牡蠣、ホタテ、ワカメ、ホヤなど、いろいろ種類の養殖をしていたのですが、特に牡蠣の品質が良くなかったんですよね。宮城県内でノロウイルスが陽性になると、牡蠣の出荷は加熱扱いとなり、生での出荷ができなくなります。加熱扱いとなると、身が大きいなど品質が良くないと、なかなか売れません。
震災前から「このままでは自分たちの牡蠣が売れなくなる」という危機感がありました。すべて流された東日本大震災なんですけども、震災前に戻るのではなく、前よりも絶対にいいものを作る、という漁業者の思いがありました。
漁業権をいったん白紙にする、これまでの施設の持ち分を見直して、ゼロからやり直すきっかけになりました。その結果、牡蠣の養殖施設は震災前の3分の1以下にもかかわらず、より良い品質の牡蠣を、これまでよりずっと短い期間で収穫できるようになったんです。
生産金額も増え、後継者も増えています。関係者をまとめるリーダーシップがあったことも大きいと思います。私たちは職員として、とにかくお手伝いする、頑張るということに徹してきました。そうした取り組みが評価され、色々な賞の受賞にもつながり、今の状況に至っているのは嬉しいです。
震災2年目、「がんばる養殖」という取り組みを始めました。96名の漁業者がグループを作って一緒に共同作業をする、というものです。はじめは「そんなことできるわけない」と言われました。漁師さんって、一人ひとりが社長さんで、人の言うことを聞くのが一番きらいな人たちなんですよね。人と同じことをするのが本当に嫌い。
そんな漁師さん96人がグループを組んで一緒にやれるのか? というのが最初はありました。始めてみると、まさにその通りのことが現場で起きました。そこで、週に2回ずつ、年間を通して100回くらい、8つの行政区の代表者が集まりました。ワールド・ビジョンさんに支援してもらったプレハブで最初は行っていました。
100回を超えると、お互いコミュニケーションもとれてきて2年目、3年目とつながって、思いを持って素晴らしい取り組みになったのかなと思います。最初は人の言うことは聞かないし、なんで人のために震災から守った船を貸さないといけないのか、など本当に大変だったんですよ。それでも、みんなにお願いしてやったのが良かったなと思います。
「がんばる養殖」の人件費や給料に該当するものは、水揚げしたものから出る仕組みでした。96人のなかには高齢者から若者までいたんですけど、若者は「なんで年金もらっている人と同じ給料なんだ」と文句を言うし、年配の方は若者に対して「仕事の段取りも分からない、ノウハウが分からない人と同じ給料だなんて」と言う。
お互いの言いたいことも分かるんですけども、最終的には同じ金額にしました。その代わり、「がんばる養殖」が終わったときに後継者を優遇するような漁業権の施設配分を考える、ということにしました。そこは若い人たちに我慢してもらったのですが、3年も経つと徐々にコミュニケーションもとれて、良い関係になりました。
最初に望月さんと村井さんが来てくれましたよね。オレンジのベストを着た好青年が来たと、覚えていますよ(笑)。
一番最初は船12隻を支援いただきましたよね。震災の年の10月でしたっけ?
今でも船を船主さんに引き渡すときの、漁業者にとって船が一番なんだなぁ、というのを覚えています。船をなくした人たちが船に乗った時の躍動感や嬉しさは、いまでも覚えていますよ。船というのは、本当に命の次に漁師さんたちにとって大切なものなんだなぁと。なので、それをいち早くワールド・ビジョンさんに支援してもらったのは、本当に嬉しかったですね。
船以外にもワカメが一番最初に養殖ができるということもあり、ワカメの関連機器などもありましたが、いち早く支援してもらって、ありがたかったですね。
仮設住宅に入っていたんですけども、仮設住宅に行くと、ワールド・ビジョンさんのマークのついた生活用品がアチコチにがあるんですよね。なので、家内や子どもたちとも、仕事でも家でもワールド・ビジョンさんにお世話になっているんだねっていう話をしていました。
子どもたちの当時の先生が「困ったときのワールド・ビジョン」と学習発表会か何かで言ったのを今でも覚えています。それくらい、みんながお世話になっていたんですよね。
地元のスポーツ少年団の野球の監督を11年、40歳のときからやりました。学校自体も小さいですが、県の大会でベスト8ぐらいまでいきました。僕らの牡蠣は「戸倉っこかき」というネーミングなんです。南三陸町 戸倉の子どもたちが「戸倉っこ」。
子どもたちは、地域の宝なんです。子どもたちが自分たちにとって一番の宝だっていう思いが受け継がれてきているというのが自慢なんです。96人の話になりますが、子どもたちの関係のおかげで、親たちも仲良くなるとか、みんな子どもたちの影響が大きかったんじゃないかなと思います。
戸倉地区は震災があって、多くの人の家が流され、南三陸町の中でも被害の大きい地区になっています。みんながみんな助け合わないといけないという絆が強い土地柄だったのかなと思います。今は野球の監督はしていませんが、子どもたちを見るとやっぱり楽しくなります。
震災後に子どもたちは、登米市の善能寺に行くことができたんです。自分は仕事で追われて、子どもたちもその状況を知っている。本当に震災があったのかと思うようなのどかな場所で1年間勉強できたのは、本当に感謝しています。そのときに、ワールド・ビジョンさんがバスの支援をしてくれたというのは、私たちからすると本当にありがたかったです。
子どもたちも惨劇のなかで、学校という学びの場として、登米市ののどかな風景の中で勉強できる場所をつくってもらったというのは、ありがたかったですね。
当時、私には小学生と中学生の子どもがいたのですが、私たちが仕事に行っている間に、大きなバスに乗って学校に行けるという環境をつくってもらって学校に任せることができたので、仕事に集中することができました。
当時は小学生・中学生・高校生くらいで震災を経験した漁業者の息子さんとかで、今は地元へ帰って来て漁業をしている人もいます。震災後、過密養殖を避けて、どこにも負けない良いものをつくりましょうという漁業者の思いや取り組みによって、今は牡蠣で生活できるくらいに生産量や生産金額に加えて、後継者も増えています。
ASC認証という国際認証を2016年に取得しているんですけども、労働環境もかなり厳しく審査されました。震災前は、朝早くから遅い時間まで働いていましたが、今では8時間で終わっています。日曜日は完全にオフになっています。余暇もできて友達との約束もできるとか、今のライフスタイルに合っているんでしょうね。それで、後継者として戻って来ようという人もいるんじゃないかなと思います。漁業の面ではそうした変化を感じます。
あと、これか個人的な話になりますが、先日(2月13日)大きな地震があったとき、娘が怖いと私たちの寝室に飛び込んできたんですね。震災当時、小学2年生だった娘も夢中になって一緒に逃げていたんですが、東日本大震災のときよりも先日の地震のほうが怖いと感じたみたいです。子どもの見えない部分、いろんな思いというか感情があるのだなと感じました。大きい地震がもう来ないとは言えないので、そのたびに思い出すのかなと、親としては複雑な思いになりますね。
自分の子どもでもそういうことがあったので、震災を経験した子どもたちは自分たちの知らない怖さというのが、これからもあるんだろうなと感じました。
今回、私たちが取り組んだのが持続可能な漁業を次の世代にというのが一番の目的でした。ASCという海の国際認証を取得しましたが、FSCという山の国際認証もあります。FSC認証を取得した人たちに話を聞く機会もあるんですが、次の世代というのは50年や100年後の話なんですよね。海の場合は10年や20年後なんですが、それでも予想もつきません。
それでも養殖施設を3分の1にまで減らしたような取り組みというのは、今後もぜひ継続してもらいたいんですね。そして、どこにも負けない品質のものを作っていくというのは、今後の漁業においては差別化や作る人の気持ちも含めて考えていかないと、競争という生き残りをかけて、「戸倉のものは、うまいよね」と言ってもらえるように、みんなでやっていかないといけないです。私ももうすぐ定年退職なので、そういう思いを漁協の職員にも引き継いでいかないとと思っています。
今の私の一番の仕事は、次の世代の職員に引き継ぐ、次の世代を育てることです。山の人たちの話を聞くと、自分が生きているうちには木の伐採はないよな、みたいな話をするんですよね。そういう話を聞くとすごいなと思いますし、森林組合の方にはお世話になりました。
志津川湾には、志津川支所と戸倉出張所の2つの漁業権があり、平成13年に合併しました。漁業権については、聖域というか口を出さないというのが合併の条件でした。そういう条件であった漁業権について、震災ですべて流されてしまったときに、戸倉はゼロからやり直すことにしましたが、志津川はそういうやり方ではありませんでした。同じ志津川湾なので、お互いに漁業権を守らないと意味がないという声もありました。大学の先生に環境調査をしてもらうと、戸倉の方が環境が良く成長しているんですね。
次の世代が持続可能な漁業を目指すという部分では、決して私腹を肥やしてはいけないと、次の世代に引き継ぐことのできる漁業を目指したいです。
2016年に日本初の国際認証ASCを取得し、2017年にイオン環境財団の第5回生物多様性日本アワードで優秀賞、2019年に水産部門で天皇杯を受賞しました。天皇杯を水産関係で受賞するのは、日本のなかでも一番でした。持続可能な漁業で、生産量も増えた、生産金額も増えた、品質も良くなった、後継者も増えたという取り組みが評価されたことが天皇杯受賞の一番大きなポイントでした。これから持続可能な漁業を目指すために、ずっと取り組んでいきたいと思います。
自分個人としては、やっぱり一番大きかったのは子どもたちです。
自分が頑張っている背中を、子どもたちはしっかり見てくれているなと思っていました。ここで何があっても自分がくじけてはいけない、頑張らないといけない。頑張る姿を、子どもたちが分かってくれるという思い。漁業だけでなく仕事している人たちみんなそうだと思うんです。
当時、みんな何とか生きていかないといけない、頑張らないといけない、と感じていた。その思いを支えていたのは、きっと子どもたちだと思うのです。ここで自分がくじけてどうするんだ、と。
これからも、そういう思いを持ち続けて、やっていければと思います。
あの当時、地域の復興がかかる漁業再生を支える阿部さんが、子どもたちからパワーをもらっていたことを、私たちも今回、初めて知りました。日本は災害の多い国です。被災されている方々に対して、阿部さんだからこそ送れるメッセージがあると感じました。そしてその阿部さんやオトナの方々の背中を見て育った子どもたちや若者が、しっかり歩んでおられるのだということも、見ることができ、私自身元気をいただきました。
阿部さん、お忙しい中を貴重なお話を聞かせていただきまして、本当にありがとうございました! またぜひ、お話を聞かせてください。
今後のさらなるご活躍、応援しています。