(2018.10.24)
華僑の両親の元に日本で生まれ、2歳から15歳までを中国広東省で過ごした私は人と少し異なったバックグラウンドを持っています。
7歳の時に当時住んでいた広州で日本人学校ができるまでは、地元の幼稚園や小学校に通っていました。その時の使用言語はもちろん中国語で、日本語はあまり話せずにいました。
しかし、小学校2年生から日本人学校に通い、「純日本人」の同級生に囲まれるようになった私は、日本語が話せないゆえに友達ができず、自分と同じ中国にルーツをもつクラスメイトだけが唯一の遊び仲間でした。
みんなの話していることが理解できず、遊びに混ぜてくれない寂しさは今思い出しても少し辛いですが、日本語を熱心に教えてくれた優しい先生のおかげでその期間はあまり長すぎずに終わりました。
そして反日運動が激しかった2000年前半、私が思春期を迎える頃になると、自分が中国のルーツを持つことを隠そうとしていることに気付きました。
登下校のスクールバスの窓から見える反日デモに怯える友達を見て、「中国にルーツを持つことを知られると嫌われるのではないか」と思うようになり、友達の前で中国語を話したがらなくなりました。
日本生まれ、日本国籍だけど、血もルーツも中国人。
一番嫌いだったのは、「日本と中国どっちが好き?」と聞かれる瞬間。
日中戦争について意見を求められるときは、本当に困りました。
「いっそのこと日本人か中国人かどちらかに生まれたかった」と、変えられない事実に悔しさを覚えた時期がありました。
その時の私は自分がナニジンなのか分からなくなっていたのです。
「日本で学校生活を送りたい」と強く願った私の思いを叶えるために、両親は私を国際基督教大学高等学校への進学を勧めてくれました。
今思えば、この高校生活で、私は本来の自分と向き合い、自信を持てるようになりました。
3分の1の学生が帰国子女であるこの高校で、自分と同じ「ユニークなバックグラウンド」を持つ同い年の人たちと出会いました。
何より衝撃だったのは、みんな自分の経歴やユニークさに自信を持っていたことでした。それまで「なるべくみんなと同じになる」ことが目標だった私は、初めて自分自身について自信を持って話せるようになり、中国のルーツを持つ自分のことが好きになりました。
日中間でアイデンティティについて悩まされた私は、その現象やその状況にいる人たちのことをもっと知りたいと思うようになり、大学は「異文化コミュニケーション」を学ぶために立教大学に進学しました。
私が「難民」というテーマに関わりはじめたきっかけは2015年秋のアメリカ留学でした。
2015年の秋といえば、中東やアフリカの多くの難民が危険な航海を経て欧州に渡った「難民危機」と呼ばれた時期で、私にとって初めての「難民」との出会いでした。紛争や迫害が原因でふるさとを離れ、異国や異文化で生活しなければならない人々。さらに避難先の国で育ち、私と同じように「アイデンティティ」に悩む第二世代の人たちのストーリーを聞くと、自分が抱えた悩みを思い出し、胸が痛くなります。
当時アメリカの首都ワシントンD.C.でSustainable Development(持続可能な開発)を学んでいた私は、様々な国際社会問題の解決手段の一つとして「アドボカシー」があることを初めて知りました。
権利擁護や政策提言などの意味を持つ「アドボカシー」ですが、私は「社会的に弱い立場に置かれている人たちの意見を代弁し、彼らが直面する状況を改善すること」という風に認識しています。
留学から帰国後の2016年1月、難民支援協会(JAR)の「難民アシスタント養成講座」に参加し、日本の難民受け入れ状況について学びました。
例年十数人程度しか難民認定されない日本の難民受け入れの現状に対して納得いかない傍ら、大学生の自分にできることは何かを考えた末、数人の仲間を集めて「アドボカシー」の一環として大学内での難民映画上映会を企画しました。
国連難民高等弁務官事務所(UNHCR)の大学パートナーになるように立教大学と交渉し、より多くの大学生が難民の人々が直面する状況について知ってもらえるよう、映画上映を含めたシンポジウムやトークセッションなどのイベントを3年間に渡って5回程実施しました。
映画というツールを選んだのは、日本で平和に暮らす一般の人々に、「難民」というマイナスなイメージを真っ先に与えかねないトピックに、興味を持ってもらうためでした。
人類が創った第7のアートである「映画」は本当にパワフルで、結果としてたくさんの人たちが「難民」と呼ばれる人々について興味をもってもらえるようになりました。
2016年秋、アフリカ南部にあるモザンビークに国連ユースボランティアとして5ヶ月間派遣されました。国連ボランティア計画(UNV)の広報官として働いていた私は、12月5日の「国際ボランディアの日」のために、地域の中学生と持続可能な開発目標(SDGs)について学ぶイベントを企画しました。
大人でも理解に時間がかかるSDGsをどのようにして10代の子どもたちに理解してもらえるかを考えたときに、アートがヒントになりました。
モザンビークのアーティストたちを訪ね、彼らと話して分かるモザンビークならではの社会問題やその現状に対する思いを聞き取り、イベントの協力をお願いしました。
その結果、中学校の壁に17つの目標を表した絵をアーティストや地域のボランティアが中学生たちと共に描き、17つのウォールペインティングが完成しました。それぞれの絵を一緒に描く過程で、それぞれの目標が何を意味するのか一緒に考え、中学生たちもSDGsについて楽しく学べたと思います。
「キャラバン」を初めて提案したのは、私でした。
2018年6月20日「世界難民の日」にイベントを主催した際、同じ国連ユースボランティアの同期であるうしろちゃんこと後智子に声を掛けられ、「未来ドラフト2018」 への挑戦が始まりました。
「難民居住地に住む子どもたちが、たがいの違いを乗り越えて一緒に楽しめられるアイデア」がテーマであるこのアイデア・コンペティションは、「楽しさ」という数値では測れないものがゴールであるゆえに、私をはじめとする他の3人のメンバーにとって大きな挑戦でした。
それぞれ異なる活動経験を持つ私たち4人のチームは、国際協力・支援の現場で培った分析力を生かし、「PEACEクラブ」を繋げたらビディビディ難民居住地(以下、ビディビディ)全体の楽しさに繋がると気づきました。そして、人と人を繋ぐ上でアートを活かすことが画期的であることを知っているため、「わくわくアイテム」と名付けたアートをたくさん詰め込んだ「ビディビディキャラバン」が誕生しました。