(2023.05.08)
シリア史に悲しい記念日が次々と刻まれています。3月15日は国を破壊したシリアでの内戦が勃発した日。そして、2月6日―シリアの人々にとって忘れられない日がまた1つ増えてしまいました。
恐怖に包まれたその日、人々は激しい揺れで目が覚めました。その揺れが、その後続く1万4,000回の余震のほんの1つ目だなんて、誰が想像したでしょうか。震度7.5の揺れを観測する余震もたびたびありました。
トルコ・シリア大地震から5月6日で3カ月が経過しました。地震がもたらした破壊と苦しみは大きく、シリア北西部だけで4,500人の命が失われ、負傷者の数も10,400人に上ります。10,600軒の建物が被害を受けました。トルコでは影響を受けた人の数は910万人に上ります。300万人が我が家からの避難を余儀なくされ、5万人の人命が失われました。
ワールド・ビジョンは、シリア北西部の16万4,235人、トルコの8,510人の人々に、寝具、現金給付、燃料、暖房器具、衛生キット、基礎的な保健サービス、食料などの支援を届けてきました。
ワールド・ビジョンが支援の現場で出会った1人のお父さんの話をご紹介します。
「揺れている最中の状況は最悪で、世の終わりがきたかと思いました」そう話すのは、家が左右に揺り動かされる中、子どもたちを抱きしめ続けたヤーハさん(仮名)です。
彼は40歳の父親で、7,000人もの人が閉じ込められていた瓦礫の中からかろうじて脱出したうちの1人。隣人、友人、家族、救出隊が中に残っている人たちを必死に救出しようとしましたが、人も機材も間に合わず、そこで多くの人が命を落としました。
ヤーハさんは、立て続けに起きた悲劇のショックから立ち直れずにいました。「私たちは4階に住んでいて、地震が起きた時、私はたまたま起きていました」と話します。ヤーハさんは落ち着いていて、状況を瞬時に把握することができました。はじめは、小さな揺れですぐに止むと思っていましたが、揺れが激しくなり、車の警報が鳴り始め、人々が叫び始め、建物全体が左右に揺れ始めました。
一刻も早く地上に降りなければ危険だと察知したヤーハさんは、すぐに避難を決意し、同居していた母親と子どもたちを起こしました。いずれ家に戻ることができると思っていた彼は、家が火事にならないようすべての電気を消すことを忘れませんでした。しかし、家に戻ることは、ありませんでした。
ヤーハさんは暗闇の中を進み始めました。急いで子どもたちの手をつかんで飛び出したので、懐中電灯など他に何も持って出ることはできませんでした。その子どもたちの手も、地面が揺れるたびに離れそうになったため、1人は抱きかかえて階段を駆け下りました。
安全な場所にたどり着くまでの時間はまるで永遠のように感じ、しっかりと作られていた階段はまるで滑り台のように感じ、「4階から1階まで滑り落ちた」と話します。やっとたどり着いた建物の外は極寒で雨が降っていました。彼らはパジャマ姿で、はだしでした。
やっと一息つけると思った瞬間、また地面が揺れました。「私たちは建物から離れたところにいたから安全でした。目にした光景は地獄でした」と振り返ります。彼らは無事に避難することはできましたが、所持品はなく、行く先もありませんでした。
ヤーハさんは、少し離れたところで暮らす妹に連絡をとり、安否の確認後、彼女と彼女の家族と合流しました。彼女の家は、地震で倒壊した1万700棟の建物の1つで、跡形もなく崩れていました。兄妹に残された行先は、避難所のみでした。
彼らは少しの衣服を持って避難所に向かいましたが、そこは人で溢れかえっていました。家を失った8万6、000人が、各地の避難所に殺到していたからです。
一夜で急増した避難民全員にテントや支援物資を配布することは、到底不可能でした。ヤーハさんたちは幸いテントを受け取りましたが、理想とはかけ離れていました。「共有トイレは1つしかなくて長い行列ができるし、私たちはこの小さなテントに13人で暮らしています。母親に窮屈な想いをさせてしまっています」と話します。
学校もなく、子どもたちの勉強は中断されています。だが、彼らが生きているだけありがたいとヤーハさんは神に感謝し、次のように話します。「子どもたちは切り替えが比較的早いのでそれに救われています。彼らを喜ばせるために色々と買い与えています。また、支援団体のスタッフが寄り添ってくれること、また、おもちゃや衣服などのサポートも助かっています」
12年間にもわたる内戦とそれによる圧倒的な物資不足で苦しんでいたシリア北西部を今回の地震が襲い、より一層、深刻な課題に直面しています。
しかし、シリアの人々は強く、ヤーハさんはそのことを証明する1人です。ヤーハさんの家族に対する思いは、家族を守るためなら何でもする、という強い父親の意思を象徴しています。