スモーキーマウンテンは、フィリピンマニラ市北方にかつて存在した巨大なゴミ山とその周辺のスラム街のことをいいます。名称の由来は、捨てられたあらゆるゴミが自然発火し、火が絶えないことから「スモーキーマウンテン」と呼ばれるようになりました。
1990年台前半には2万1,000人以上の人々がゴミを拾いながら生計を立てていた街です。
この記事ではスモーキーマウンテンの歴史と現状を解説します。
「忘れられたスラム」といわれるスモーキーマウンテンを知っていただき、私たちができる支援を考えるきっかけになれば幸いです。
フィリピンのマニラ市北方に位置し、かつて東洋最大のスラムといわれていたスモーキーマウンテン。1990年台前半、その規模は29ヘクタールにおよび、この巨大なスラムには、約3,000世帯、2万1,000人以上の人々が生活をしていました。
スモーキーマウンテンは、フィリピン国内で発行されている地図には掲載されていません。いわば「地図にない村」です。
捨てられたゴミの中からまだリサイクル可能なものを探し、それらを換金することで生活費を得ています。このような生活をして暮らす人たちは、かつては、ハイエナなどの腐肉を食べる動物を意味する「スキャベンジャー(scavenger)」という差別的な呼び名が使われていました。
スモーキーマウンテンは、元々は漁村でした。しかし、1954年にゴミの投棄場所となり、それ以来マニラ市内の多くのゴミが運ばれるようになります。
このような街がなぜスラム化し、ゴミ山ができてしまったのでしょうか。スモーキーマウンテンができた背景と歴史について解説します。
1995年11月27日、スモーキーマウンテンはフィリピン政府により強制撤去されました。スモーキーマウンテンがフィリピンの象徴のようになった状況を、政府は国家の恥だと認識し閉鎖を命じたためです。
退去をめぐり住民との闘争が何度も繰り返されましたが、再開発を積極的に進め、1994年からゴミの廃棄禁止に踏み切りました。
スモーキーマウンテンを追われてしまった住民たちは、政府が用意した仮設住宅に移り住み半ば強制的な立ち退きにあってしまったのです。
スモーキーマウンテンからの退去を余儀なくされた住民たちですが、その大半は「第2のスモーキーマウンテン」と呼ばれる場所で、以前と変わらない生活をしています。
2000年1月時点では、住民の約6割がスモーキーマウンテンの向かいにできた新たなゴミ山で生活する状況が続いていました。
その場所は、ケソン市北方にあり「スモーキーバレー(煙の谷)」と呼ばれています。
フィリピンケソン市北方にあるパヤタスゴミ捨て場。世界の三大スラム街に数えられた「スモーキーマウンテン」の向かいにできた新しいゴミ捨て場が「スモーキーバレー」です。
ここはもともと「谷」であったため、スモーキーマウンテンに対してスモーキーバレーという通称で呼ばれるようになりました。
瞬く間にゴミの山(マウンテン)の状態になり谷がゴミで埋められ平地になるまでには、それほど時間はかかりませんでした(1982年)。
住人の生活の実情はどのように変化したのでしょうか。
スモーキーバレーには、2001年当時、約1万8,000戸に9万2,000人もの住民が暮らしていました。住人の多くは職を求めて農村から都市に流入してきた人々ですが、願うような職を見つけられず、ゴミの中からお金になるものを売り、わずかな収入を得ています。
ここでは、4歳ぐらいの幼い子どもたちがゴミ拾いをすることも珍しくありません。家庭の生計を助けるために、ほとんどの子どもが学校に通えないほどの深刻な生活環境です。
栄養失調や皮膚病などの病気にかかる子どもたちも多く、幼児の死亡率は、2001年当時約30%と高い水準です。これは、フィリピンだけの問題ではなく世界的に考えるべきことだといえるでしょう。
住人の半数が、紙やプラスチック、空き缶、アルミニウムなどを拾い、廃品回収業者に売ることで生計を立てています。
1日の平均日収は、約100〜300ペソ(244〜732円 ※1フィリピン・ペソ=2.44円 2022年7月14日時点)にしかなりません。
そのため、1日にトラック約500台分のゴミが運びこまれ、100人以上が先を競うようにしてゴミ拾いをしています。中には、角を曲がるためにスピードを落としたトラックの荷台から取ろうとする若者もいるのです。
住人の生活は、ゴミの中から少しでも利益になるものを売り、わずかな収入を得て暮らしています。ゴミ山からは悪臭、粉塵や排気ガスなどが混じり環境においても劣悪な状況であることは間違いありません。ゴミ拾いをしていると、全身が汚れてしまいます。痩せた体形の住民が多く、中にはゴミの上を素足で歩く人もいます。
有害な化学物質は、呼吸器系の病気を引き起こし、皮膚病や寄生虫による病気も発生しています。
人々の生活環境は、マットレスの敷かれていないベッドの板の上に直接寝ることが当たり前です。そして、家にトイレはなく水も引かれていないため、毎朝タンクで運んでくる水を使用しています。
そのほかにも、発電機の影響により電気の供給時間は限られています。日中に電気が届かないことは、凄まじい暑さの中でも扇風機なしで過ごさなくてはなりません。また、新鮮な食材を買う余裕がなく、米や塩気の効いた干物が主食です。
スモーキーバレーの住人たちはこのような日常を送っているのです。
「パアララン・パンタオ」は、パヤタス地区に創立されたフリースクールです。行政の支援はなく、校長と地域の人たちが協力し成り立っています。
パヤタスのゴミ山の麓と再定住地のモンタルバンにそれぞれ1校ずつ建てられました。
学校では、公立小学校レベルの勉強を教えており、歯磨きなどの生活習慣や図画工作、音楽、遠足などさまざまな活動を行っています。これらの活動を通して、子どもたちに幅広い夢を抱ける機会を提供しています。
また、シンガポールの支援で給食を、日本やスイスの支援では大学生6名、高校生1名、小学生1名へ奨学金が供給されました(2008年1月時点)。
なお、運営資金の大半は「パヤタス・オープンメンバー」の支援で賄っており、授業料は無料です。
2000年7月、高く積まれたゴミが高さ30m、幅が100mに渡り崩壊するという大事故が起こりました。事故の1週間前から台風の影響もあり、確認された犠牲者は234人となりました。しかし、実際には1,000人近くに上るといわれています(注1)。
それにより、政府によりゴミの搬入が中止され、住人たちはゴミ搬入が再開するまでの約4カ月間、生活の糧を失うことになりました。
この大事故も原因の1つとなり、スモーキーマウンテンは閉鎖されましたが、現在でもゴミ山の高層化が進んでいるのが実情です。崩壊事故以降、強い雨が降る日などには「また事故が起こるのではないか」と常に恐怖にさらされています。
スモーキーバレーが封鎖され、住人たちからは反対運動が起こりました。どんなに危険な場所であろうと、ゴミ山がなければ収入源がなく生活ができません(注2)。
新たなゴミ山のある街へも交通運賃が払えず、生きていけないという現実があります。
パヤタスのゴミ山(スモーキーバレー)強制退去後の住人の生活や封鎖後の街はどのように変わったのでしょうか。
スモーキーマウンテンは、住人ですら夜の外出を控えるほど危険な場所といわれています。殺人、強盗、レイプなどのあらゆる犯罪の舞台となっているのです。しかし、警察が立ち入ることはありません。1人が亡くなってもニュースにはならない恐ろしい街というイメージが強いといえます。
ゴミ山の閉鎖後も、パヤタス周辺では犯罪率が上がりました。新しい職を求めて街を出ていく人もいましたが、安定した稼ぎが得られず、戻ってくる人が多く見られたようです(注3 p.96, p.97)。
また、スラム内では望まない妊娠・出産を経験する10代前半の少女も珍しくありません。生活費を稼ぐために売春をし、10代になればすぐに妊娠させられるという悲惨な貧困の連鎖が続いています。
元からあるスモーキーマウンテンは、現在は閉鎖されゴミは運び込まれてはいません。しかし、そのゴミ山にはいまだに約100世帯が暮らしています。また、スモーキーマウンテン閉鎖後にできた第2のマウンテン、スモーキーバレーも2000年の崩落事故を受けていったん閉鎖されましたが、その隣で第2のゴミ山の投棄が始まり、第一のゴミ山でも2009年より再び投棄が再開されています。今もなお、劣悪な環境において多くの人々が暮らしています(注4)。
住人の強制退去後は、公共住宅があてがわれ悲惨な現状は改善したかのように伝えられたかもしれません。しかし、根本的な貧困問題は解決されず、何十年たっても何も変わらないのが現状なのです。
ワールド・ビジョン・ジャパン親善大使である女優の酒井美紀さんは、スモーキーマウンテンで生活する少女との出会いをきっかけに「チャイルド・スポンサー」になりました。厳しい貧困の中で生活する子どもたちのために「何かしたい」と思ったといいます。
チャイルド・スポンサーシップは、ワールド・ビジョンがご案内している継続的な募金プログラムです。チャイルド・スポンサーシップは、月々4,500円、1日あたり150円の継続支援です。チャイルド・スポンサーになっていただいた方には、支援地域に住む子ども"チャイルド"をご紹介します。支援金はチャイルドやその家族に直接手渡されるものではなく、子どもの人生に変化をもたらすことを目指した様々な長期の支援活動に使われます。
支援地域がどのように発展し、チャイルドがそこでどのように成長しているかという支援の成果を、毎年お送りする「プログラム近況報告」とチャイルドの「成長報告」を通じて実感していただけます。
今も、支援を待っているチャイルドがたくさんいます。チャイルド・スポンサーシップを通して貧困を解決する開発援助や支援活動へのご検討をお願いいたします。
注1 静岡県立大学:環境リレーコラム 第18号(2010年3月号)
注2 国境なき子どもたち:活動ニュース
注3 湊 智哉.上村ゼミナール:フィリピン・スタディツアー報告
注4 立命館中学校・高等学校:SGH 今回で5回目となる、フィリピン貧困・防災研修を実施
※このコンテンツは、2022年6月の情報をもとに作成しています。